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世界一澱んだ怒涛の非モテ超理論「レイプゾンビ」

 僕はゾンビ映画が大好きで、もうかれこれ約150本くらいは観ている。音楽やアニメなどあらゆる趣味において知識の分布が点在的で中途半端な僕が、唯一おしなべて語ることの出来る趣味である。
 それだけ観ていれば、自分の中で一定の評価の基準というものが出来てくるものだ。面白いゾンビ映画は数あれど、その中でも、ゾンビ・パンデミックを通して何かしらの主義主張を描き出すものを、僕は「名作」と呼んでいいと思っている。

 そんな名作の中で、僕が一際気に入っているのが、友松直之監督「レイプゾンビ」シリーズだ。

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あ、今何人か笑ったでしょ?

 

 全5作に渡る超大作で、加えて1本の外伝を持つ「レイプゾンビ」、あらすじを語るなら差し詰めこんな感じだ。

 

 世界中で、実在の女性に興味を持たない童貞オタクを除く全ての男性が不死身のレイプ魔と化す事件が発生。通常のゾンビと違い、彼らは頭を破壊しても死なず、無力化するにはキンタマ撃ち抜くかチンポ切り落とすしかない。中出しされた女性は精液に含まれる毒で即死してしまう。
 ナースのノゾミとOLのモモコは、パニックの最中で恋人同士となる。神社で一夜を明かした末になんとモモコは妊娠。本人はノゾミの子だと言い張るが、実際には少し前にモモコを犯しかけるも先っちょだけ入れたところで斃されてしまったレイプゾンビのカウパー腺液に含まれた微量の精子による妊娠であった。
 モモコは光り輝く赤子を出産。何故か赤子とモモコを襲わないレイプゾンビ。やがて北朝鮮から飛来したミサイルにより東京は壊滅、ノゾミはレイプゾンビの群れの中へと消えていくモモコを追えず、女村(アマゾン)避難所へ合流し、クローン技術を自在に操る科学者となった。
 一方その頃、思春期に自分らを不当に蔑み罵ってきた女性に深い恨みをもつ童貞オタク達は「アキバ帝国」を建国、モモコと赤子を現人神として崇め、その他の女性に対しては、レイプゾンビをけしかけ女狩りを楽しんでいた。
 ある日、アキバ帝国は女村避難所に総攻撃を仕掛ける。モモコを救うためアキバ帝国へと潜入していたノゾミを除いて、避難民達は全滅した。ノゾミはやっとの思いでモモコと再会を果たすも、最初の新人類であるモモコの子どもを暗殺するためアメリカから送られたアンドロイド兵・アンヌによってモモコは抹殺されてしまう。
 と、そこで浴槽で裸で目覚めるノゾミ。なんとノゾミは、モモコを救うため近未来から何度もタイムリープを繰り返していたのだ。5歳になったモモコの子ども・アキラは両性具有の新人類として驚異的な早さで第二次性徴を迎えたところだ。ノゾミをずっと見守ってきた童貞オタク・ノボルは叫ぶ。「土曜日のラグビー部室!」果たして、ノゾミは過去を変え、モモコを救うことが出来るのか!?

 

 一気に全5作分のあらすじを書き上げてみたが、自分で書いてみて頭がおかしくなりそうである。主人公の動向だけを追うとこんな感じだが、実際には狂犬女子高生タマエ、命を落とすも後にクローン巫女戦士となって復活を遂げる主婦カナエ、鬼のような巨根を持つレイプゾンビのタケシ、個性豊かな女性避難民らが物語を一層盛り上げる。

 

 さて、何から話そうか…何とも情報量の多い作品故、ご紹介が非常に難しい。
 まず、そのブッ飛んだ世界観が凄まじい。キャラクターはすべて極端化され、「いや、そんな女ばっかりでもないでしょ…」というツッコミは押殺される。メディアがレイプゾンビを「毒男」と呼び、オタク達はレイプゾンビを「リア獣」と呼び、生き残った女性の避難所が「女村(アマゾン)」というのも皮肉が効いている。そして何よりレイプゾンビそのものの設定や、クローン巫女戦士、アキバ帝国などの存在は狂気の極致である。ノゾミのタイムリープの方法など、三つ叉のバイブ型のタイムマシンを股間に充てがうのだ。女科学者が「クリを刺激する弁が過去を呼び、膣に挿入される本体が現在を揺さぶり、肛門を抉るパールが未来を繋ぐ」などと真面目な顔して言うもんだからもうたまらない。個人的にパワーワードという言葉は「とりまムチャクチャ言ってりゃ面白いんでしょ」という安易さが感じられてあまり好きではないのだが、レイプゾンビにおけるそれにはキチンと説明が為されているので、なんとも心強い説得力ではないか(納得できるとは言ってない)。
 一見くだらないお色気ホラーVシネマのようだが、実はかなりゾンビ愛に溢れた作品でもある。冒頭でノゾミとモモコが神社へ逃げ込み、先客であるカナエ、タマエと出会うシーンなどほぼ「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」のフォーマットであるし、レイプゾンビが何故女性を犯すのかを語るゾンビや、女科学者によって愛を再教育され女性を襲わないゾンビなど、それぞれ「バタリアン」のオバンバ、「死霊のえじき」のバブの明らかなオマージュだ。偉大なる先人への敬意を忘れない友松監督の心意気には思わずシェイクハンズである(精神的に)。
 かなり長くなったがもう少し書かせて欲しい。何より重要なのが、作品を通して語られるテーマ、「男女の断絶」だ。事の行く末を見守る進化学者・フレッシュ後藤によって作中語られる男女の悲しいまでの認識の差、そして監督が如何に暗い思春期を送ってきたかを窺わせる主張、すなわち「ヤらせない女の罪は地球より重い」。予め言い訳しておくが、僕はまったくもって監督の主張には同調しない。同調しないが、監督は思春期の思い出話から神話、生物学、社会学、他様々な学説、人類滅亡や諺、詭弁を用いてあの手この手で観るものを煙に巻く。「非モテ男とヤらない女は、非モテ男の子孫繁栄を妨げる、つまり先祖末代までの殺意表明をしているに等しいので、非モテ男は正当防衛として女を殺していい」などと平気で言ってのけるのだ。いくらなんでもそりゃないだろう。いやしかし待てよ。何を隠そう僕自身も、女の子にはメッキリモテずセックスなどほとんど経験がない。僕はもしかして、女をレイプしたって構わないのか…?と、アキバ帝国民と一緒に「侘び、寂び、萌え」と拳を振り上げかけるが、や、冷静になってみればんなわきゃあないだろうと我に帰る。この思想までもを巻き込んだ映画の世界観への完膚なきまでのトリップ、そして現実世界へと立ち返る全身全霊の往復こそ、この映画を観る気持ち良さの真髄とも言えるだろう。
 何が悔しいって友松監督、伏線張りとその回収が非常に巧妙なのだ。見事に物語に取り込まれる一見なんでもない一幕、そしてイカレつつも妙な説得力を持った弁論によって、我々は澱みきったエロ妄想とルサンチマンの海へと沈んでいく。そしてやるせなさ過ぎるラストによって、2度と浮かび上がることが出来なくされるのだ。

 

 果たして書きたいことをすべて書き切れているだろうか。もしかしたら、後々になって「こういう魅力もあったな、ああいう魅力もあったな」と付け足したくもなるかもしれない。そのくらい、底知れない魔力を持った大快作として、僕は「レイプゾンビ」を強く世間に推したい。
 ちなみに、友松直之監督は後に「未来世紀アマゾネス」「未来戦士アマゾネス」という2本の映画を世に送り出す。テーマはズバリ「男女の断絶」。もうええわ!どうも、ありがとうございました。